石仏・道祖神に会いに・・ 西隆寺の乙女三十三観音  



    ↑   椿咲く、西隆寺の境内。        西隆寺の山門   →
場 所 福島県大沼郡三島町西方巣郷4684
 訪問日  2016年4月23日
 コメント   西隆寺は、永平寺を本山とする曹洞宗のお寺です。
境内には、33体の美しい乙女観音が祀られているということで訪ねてみました。
像容の美しさもさることながら、染み入る様な語りの説明文に惹かれて、テキスト文字で改めて再編集しました。(2020年5月)
 ← 哀切かんのん
 人生に三十三の難所があるとか、誰でも苦悩の道を通る。
哀しいことだけど。
人となるための定めなのか、泣いて叫んで救いを求めると 哀切の声で
「ここまで早くおいで」と誰の上から身をのり出し白い雲をさしのべられる。
けれど恐れてその手を信じない。
触れたら突き離されるかと信ずる事を失った習性~・・・。

         不滅かんのん →
 はかり知れぬ愛と、はかりしれぬ悲しみと永遠に持ち続け給う大慈悲の観音菩薩。
あなたに願えば死なぬ命を与えて下さるとか。ものみな移り変わるとも。それなのに尚、死ぬことのない世界をささやく。
たといこの身、朽ち果ててしまうとも、あなたのみ手にすがり亡びなき国へわたしも行きた
い。

 
 ← うず潮観音
 めぐり来てただにひれ伏す我は今、観音を見たり。
巨なる樹よりも高く、うず潮の海より深く、我が胸に高鳴る血潮、その中に観世音はほほえみ給う。よろこびは満ちあふれ、ただひざまずくわが観音に、今ぞめぐりあいける。


       碧玉かんのん →
 晩秋の村を朱にそめて、一番美しい光を投げて、さよならしている夕陽。
母は私の頭をなでながら、林の中から美しい女の子が来て、小さな手を開くと、透き通る碧い小石がひとつ。目にあてると緑色の世界。
この小さなお話は、私の胸底にポトリ沈んだ。
二十代の或る日、五十になってもふと思い出して胸底を探す、碧玉の小さな小石。今も探しつづける。
碧玉と緑色に光る世界。ポトンと遺してくれた母のかたみ。

  ← 落陽かんのん
 いたく母に叱られた幼い日、かんしゃくを起こして、父の大切な湯飲みを割った。黒ずんだ荒れた掌で黙って、破片をかき集めてる母。破片の上にポロポロと涙を落とすのを見た。母のすすり泣く声は、幼い私の胸をえぐった。
落陽が母の横顔を紅に染めた、はるかにも遠い幼い日。
私は声を挙げて泣いた。
ごめんなさい、お母さん。
六十路のいま、声を限りに泣きたい。あわれ大慈大悲よ。

      一輪かんのん →
 世界の中で一人しかいない私が、たった一つの命で一回きりの人生を今歩んでいることを知った時、烈しい驚きと畏れでオロオロし、如何したものかと思いまどった。
ああ、その日を忘れない。粗末にできぬ今日を生きて、悔いあるとも美しくありたい。泥んこに吾が身を汚し、唯一輪の白蓮葉を咲かせんと泥沼におわす観音のごとく。
 
  ← 麗光かんのん
 白い蝶が私を誘います。甘い香りのレンゲ草の原っぱに、ミツバチたちのコーラス。青い空どこまでも。ポッカリ浮かぶ一ちぎれ雲。遥かなる呼声は、耳を澄まさずとも聞こえます。風が流すメロデーに、花の歌うソプラノ。
緑の草原にまろび集いいぶきの中で、わたしはあなたを遂に見た。お姿を麗しいお顔も。鈴蘭がうちふる鈴の音のような、あなたのお声。麗しい光が私に知らせてくれました。

       縁生かんのん →
 たった一度の出会いを大事しよう。
逢った時が別れと知れば、出会いの不思議を大事に思う。
縁なければ、永遠に逢い得ぬものを。友人となり仇となるとも。
出会いの縁は、観音さまは知っています。
四十億もの人の世に、たった一度でも出会いの人の誰であろうと、胸にきざみ大切にしよう。唯一度の人生のために。

  ← 流水かんのん
 失意にあえぎ、すべての光を失い生きる力をすり減らして、さまよい続けた果て、はるかにあなたを見て、胸をうたれたのです。私と同じ憂いの眼、私と同じ悲しげな笑み。引き寄せられて仰ぎ見る。
ただじっと耐え〇う。いまは・・・・・
すべては流れ去るものを。耳もとでささやいたあなた。
ああ、あなたこそ大悲観音。わが胸~給う


       きょ乳かんのん → 
 むら雲の如き煩悩。おどろおどろの欲念われ生きてあれば、群がりおこるもろもろの清からぬ思い。
自虐の果てなすすべもなく、疲れ果てたる旅路に、めぐり会わん観音の大いなる乳房こがれ求めて、傷だらけの足をひきずり今日もまた歩みつづけて・・・・。
何時の日か世俗のはてに、心安けきふる里を得ん

    
 
  ← 妙音かんのん
 合掌しただ祈る、何も求めず。
見上ぐれば微笑し給う。愚かにも祈りコトバ知らず。ひたすらに大いなる胸に抱かるを願う。妙音観世音。人と生まれて、み姿を拝むよろこび。
妙なるみ声流れ来りて、今、会いたてまつる。


      胡蝶かんのん →
 花と胡蝶の語らいが、はっきりと聞こえた日。風と小川のコーラスが、素晴らしいと驚いた日。
ゲンゲ草の原っぱで、蒼い空を見上げてだまっていつまでも居た日。幼い日のしあわせ。そんな私を探してました。探し疲れて、私の髪は白くなり、もうここで休むことにします。
観音さまに向かうと、もう花や風のコトバがはっきり見えてくるのだから。

 
 
 ← 秋風かんのん
 心がすり切れ、失意の谷にずり落ち怒りに身を裂く。己を失った時の哀れを、私は一番よく知っている。
自らを虐げて疲れはて、やっと気づいてあなたを呼ぶ。魂にあなたの声を聞くと、吾にかえるのです。
うるんだ御目見上げると、他を恨んだおろかさに悔恨がせきあがる。
ごめんなさい観音さま。
秋風さわやかに、コスモスの花びらを私にふりそそいでくれました。


       呼声かんのん → 
 毎日のあわただしさは、あてなしの放浪の旅路。その果てに何かあると信じて、ひたむきに歩くだけ。
ああ、少し休ませて下さい。私を呼ぶ声が風の中から聴こえるから。地の果てまでも行かずとも風の中に聴けるのです。
そんなに走らなくても、巨きな樹の下に休めば、さや風の中に観音の声が必ず聴けるのだから。
私を呼ぶ妙な、み声を静かに待っております。
 
  ← 野花かんのん
 観音さまと名を呼べば、ホトホトと暖かく今日も亦野に花を探し、お膝に供えて見上げる。慟哭寸前のほほえみは、私を何故か哀しませる。
朝露にぬれ乍ら、野の花をさがします。
華麗な庭園の花は、あなたにそぐわぬから、()き知らぬ野の花をきっと喜んでくださろうと。花を探すくらいしか何もして上げられぬ私。


       スミレ観音 →
 銃弾が土砂をはね、炸裂した砲弾は大地をゆする。水浸しの壕の中から暗い雨空を見上げるとき、壕のふちにしがみついた白いスミレ。わずかの根も雨足に叩かれ、間もなくずり落ちそう。雨にぬれて白いスミレの美しさ。雨も銃弾も、そして砲弾もスミレには、無縁のもの。
今をただ、美しく咲く。
ああ、あの時のスミレこそ、観世音菩薩だったのか。

 ← 姿見かんのん
 毎朝、み姿に問う。晴れの日は輝かしい微笑。曇りの日は悲しげなお顔。日毎に違う不思議さ。今日晴れて微笑の観音に向かうに、暗いまなざしで哀れむ如く私を見つめる。不審と困惑の果てに、あなたの中に私の顔を見た。私の心そのままを、うつして見せる観世音。
はるかなる菩薩は、私の思い違いか。
あなたこそ私でした。


        子恩かんのん →
 私がわたしになる為に、私に与えられた子供達。肩身の狭い思いをさせまいと、無気力でしょぼくれ姿。正体もないへべれけの姿。いやしげな姿も見せたくないと、苦労も貧しさも超えて、清く正しく奮い立つ力を与えてくれたのは子供たち。しみじみと子の恩を想う。
今まで生きてきた悦び。合掌してありがとうと拝む。私が私になるため、観音さまが私の子供となって、私の前に現れて下さったと、本当に私は信じています。
 
  ← 龍髪かんのん
 小さな小指をからませて、あす来てネとささやいた少女。緑の丘の杏の花が、龍髪にホロホロ散っていた。
その夜わたしは、あわただしい出撃命令を受けた。今度はおそらく生きて帰れまい。
朝霧の中を出動した。
その日少女は、杏の下で待ち続けたであろう。その地へ再び帰れなかった私。胸底につづく哀しみを。
龍髪の観音さまをみると、散りしきる杏の花びらと、かの時の少女を思う。
許して龍蘭芳、そして観音さま


        つる草かんのん →
 思い通りに行かぬ時、座って待つことを教えてくれた妙観世音。膝の上に青苔がはえ、つる草のかんむりに白蝶がとまって羽を動かす。
あなたに向かえば、待つことの楽しさを。まわり道も苦にならない。蒼い空いっそうあおく。つる草の花、こよなく美しく、微笑がひとりでに浮かぶ。
まるであなたのように。南無つる草観音
。   
 
  ← 桃花かんのん
 春はいつ来るのやら、野も山も深い雪。ひなの祭りに、子供達のために飾った人形。寒さにふるえています。
おだいりさまは、息子。お妃さまは、嫁さん
何時か生れてくる孫たち。
せめて一本の紅の桃の花あれば、本当の春のような春を呼ぶわたしです。
かんのんさま、こんな寒さの中に私の子供達をおきたくないのです。


       蜻蛉かんのん →
 片頬に手を当てて、頸をかしげておられる。蜻蛉がとまり、胡蝶がヒラヒラ舞っても一点を見つめたまま、静寂に耐えられる。世間の音を聞きもらすまいと、思惟の中から如意輪のめぐりを、身じろきもせず示される。
憂い深き日は、私も片頬をささえ思惟の時を待つ。あなたの言葉が、伝わり流れ来るまで。

 
 
  ← つぼみ観音
 固いつぼみの蓮華をもって、いたわるように、何も言わず笑み給う。悲しみに耐えて、いまにも泣き出しそうに、謎のように示されるつぼみ。
教えてください。何故、咲かぬ花を持つのか。咲いた白蓮なら、まこと美しいものを。
青いつぼみは、何時咲くのでしょう。
花開く私達を、じっと耐えて待つ微笑でしょうか。


       せせらぎ観音 →
 歩き疲れたら、岩かげの樹の下で休みます。清冽な清水が湧き、渇きを潤してくれます。心の耳をすますと、清水は私の中を流れています。妙なるせせらぎ、音たてて。
あなたのやさしい声が、私の中でささやくのです。碧空からの音楽も小鳥のさえずりも、私の中で聴けるのです。
私の中をそよ風が吹き、大悲観世音菩薩、あなたが私の中に居られるのです。
求め続けて、私の中で逢えたのです。

  ← 野分かんのん
 子供たちが帰ったら、観音様は花でいっぱい。椿の葉に小菊の菓子。コスモスの頸飾り。花の靴は、まっかなケイトウ。子供と遊ぶ観音さん。石肌の中に、熱い血の流れ。夕陽の中で、み姿を仰ぐ さもない石の中に、生きているあなた。
暮れなづむ草むらの上を、野分が通る。
風のささやきに、耳をかたむける。
あなたも亦観世音。


       妻子かんのん →
 三十三に身を変えて、すべての人を救うとか。昨日出会った人も、今、お茶のみしてる隣の人も、観音さまじゃないかしら。
あの人もこの人も、わたしの妻だって、観音さまじゃないかしら。私がそれと気づかぬだけ。
野路の草かげに、観音さまの石の像、夕陽に向かって、ひっそりと。
あなたでしょうか、妻となり子となり、となりの人となって。
あゝ変身の大菩薩よ。

 
 
  ← 微笑かんのん
 どんな苦悩も除いてあげると、あなたは誓ってくれました。この世に苦しみのある限り、どこにでも居られると。あなたにめぐり逢いたいと、昨日も今日も歩き続けて。時にかすかな声を聞いても、吹き去る風が消しました。けれど微笑してみ手をさし伸べる、あなたのお姿は胸に刻まれています。何処で逢えるやら。
今日も歩き続けます。三十三尋ねたら、必ず逢えると信じてます。その時の悦びを抱きしめつつ。


      合掌かんのん 
 観音さまの前で、観音さまを見ています。かんのんさまに見られています。合掌して見上げると、合掌して見てくださる。
私より先に、わたしを拝んでくれてます。
私の中に射しこむ光。
彗日破諸闇。普き光の中で、じっと待っています。じっと考えています。
あなたのみ声が、わたしの胸に流れ来るまで。

 
  ← 母心かんの
 ひとりぼっちで母の部屋に座ると、山寺の秋の寂しさ骨身にしみる。十年の長い年月、母をひとりにさせて戦場をかけめぐった私。
独りぼっちの母は、自分の独りの影を見つめ息子の無事を観音さまに祈り、観音さまと私の名を呼びつづけて、独りぼっちの影に目をそむけ、二つの顔だけ思い浮かべて見ていただとのら母。


     一路かんのん →
 哀しい時はかなしみにひたり、苦しい時も苦しみにひたる。なまじ、逃れんともがくより 素直にうけたなら二重の苦悩は受けまいもの。
なまじ真直ぐ歩くより、曲がった道は曲がったなりで。いばら深き荒野とて、我が通る一条の  心楽しく応々と、不安なくたどる。
観音菩薩の妙智力。いつも導きたまう。

 
 ← 恋慕かんのん
 風の吹きすさぶ荒野をさまよい、冷雨にぬれてたどる疎林の路。樹の下で休み、傷だらけの脚をもんで、ひたすらあなたを呼ぶ。これからどれだけ歩いたなら、あなたにめぐり逢えるのか。
この世にありて麗しく、最もやさしいというあなた。ひたすらにさがし続けた幾年。真実この世におわすのか。
南無観世音菩薩。ただ一言声を聞かせて下さい。どんな苛烈な荊の路も、まっしぐらに走りよるものを。

         乙女かんのん →
 丸い両手を合わせ、あお向いたあどけなさ。私にもこんな日があったけ。風の声も花の歌声も、小鳥の語る旅の話も素直に聞けた日。そっと拝めば、昔の日に帰してくれる。
汚れ知らぬ乙女かんのん。乙女姉妹にきざまれて、ひそと草かげに身を寄せる。
路の行き帰りに、どうしても佇まずに居られない。引き寄せられ額ずけば、清められ慰められて

 
  ← 旅路かんのん
 一日雨にぬれて、いろり火に暖められ、熱いお粥と人の情に泣きました。今宵足を痛め、樹の下で休みます。暗やみに星を見つけて拝みました。
次の札処は、遠いのでしょうか。孤独に耐えかねて、がんぜない私は子供。
声を限りにあなたを呼ぶ。呼び疲れて、草を枕に眠ります。一晩中、月が私を抱いてくれました。


        越後かんのん →
 風が吹くとその声の哀しさに。雨が降ると一緒に泣けて、独り山路を越え札所へ参るのです。歩き疲れたら、樹の下で休み。
月が出たら、光の中で眠ります。
しばし人の世を離れ、ひたすらに観音を求む。叱られても、めぐりあいたい。
はるかなる大菩薩よ。

 
 この観音像を製作したのは、当時20代であった石工姉妹で、住職の厚い信仰心を受け、長い時間をかけ完成させたとのこと。
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